は、歩いていた。
いつもの街並みを。
近代的なビル、家々、道路を走る車、バス、電車、それらに付随する音。
の格好も、それに合わせたいつもの格好。
着物ではない。
違和感のない有様に違和感を覚えながらも、は何も考えず、身体が行う様を自然と受け入れている。
身体はその身に蓄積された記憶の通りに動く。
が何も考えずとも。
が何も思わずとも。
その世界に、日常に、沿うように。
突然やってきた終わりを人がすぐさま受け入れることができないのと同じように、も今の現状を受け入れることができていなかった。
つい昨日まで三好兄に怒られ、松永に仕置きされ、弟達と悪戯をしていた、はずだったのに。
戦国の世で、限りなく貴重な平穏を過ごしていたはずだったのに。
は、日常に戻ってきた。
現代の。
夢から覚めてしまった。
パニックになる、と一瞬覚悟はしたものの、割合平然と、していた。
どこかで、そんな気がしていたのかもしれない。
あの、いろんなところを巡った旅が終わったことで、あそこに馴染んだとも、逆に役目が、することが終わったとも心のどこかで思っていたのかもしれない。
松永と共に、生きていこう、そう、思っていたのに。
世界は残酷にを現実へと引き戻した。
それは世界の正常な作用であることは、もわかる。
それが、本当は正しいということも、わかる、わかっている。
ただ、それは、それが、あまりにも非情であるということが、自らの力ではどうにもできないことが、もどかしく苦しい。
カタカタとキーボードを打つ。
進化していく人類の英知の一端をその行為で知ることができる。
だが、それは使い方にもよるというもの。
画面に映る文字はの目に映ってはいても、には見えていない。
何故ならの頭は、ある想い出に支配されているからだ。
それは、松永が自慢の茶器の一つをに見せてくれていた時のことだった。
「これは、高名な品なのだよ…これの価値もわからぬ輩が手にしていた頃もあったが、それを私が救いあげた。やはり価値がわかる者の手にあるほうがその品にとっては良い。そうは、思わないかね?」
茶器を翳して、見つめる松永の瞳はとても真っ直ぐで美しい。
「…そう、ですね。過程はともかくとして、今、その茶器は幸せ、であると思います」
一瞬、松永に見蕩れていた自分を誤魔化すように、は過程、の部分に若干力を込めた。
「過程など…瑣末瑣末。重要な事は結果だ」
「…それには賛成いたします」
この乱世、過程はどうあれ領土を広く持ち、力あるものが強い。
人が見るのは過程よりも結果である。
「…時に、久秀様」
普段では考えられないような優しい手付きで茶器に触れる松永の意識を邪魔しない程度の声音では問う。
「もしも、もしも、その価値がわかる、手に入れたいと心から思うであろうもの、しかし、己の力では、世の道理では、手に入れられないものを知ってしまい、知ってしまったが故に、余計にそれを欲する心を押さえることも、諦めることもできない場合、久秀様は、如何様にいたしますでしょうか?」
「力づくでも手には入れられないのかね?」
「はい、全ての権力、武力、交渉力、を以てしても」
軽く答えようとしていた松永であったが、の柔らかな声音とは裏腹の強い真剣な視線に、茶器から意識を放し、の質問を考える。
だが、考える必要もないことだ。
常に欲するものを自然と手に入れる松永にとっては。
松永はすぐにまた茶器に意識を戻しながらの問いに応えた。
「そうだな…身を、焦がすよ」
身(み)を焦(こ)が・す
激しく募る恋慕の情に、もだえ苦しむ。「かなわぬ恋に―・す」
出典:小学館
ぎし、椅子の背が撓る。
は見慣れた、見慣れない天井を見上げて呟いた。
「久秀様は、どうしてあの時…」
いくら考えても答えなどでやしない。
は諦めた。
そして、毎日朝目覚めては周りを確認してしまう癖がついた。
どこに行っても何もしても、心はここにあらずの状態だが、誰からも怪しまれることはなかった。
しかし、ある時、は信じられないものを見た。
向こうから歩いてくる濃いグレーのスーツ、四角いライトフレームをかけた白髪交じりの男。
鬢は灰色で後ろに向かって立っている。
ニヒルな笑みは描いたそのまま。
真っ直ぐ、に向かって歩いてくる。
「…ど、して…」
「覚えているかね?卿がこちらに来たら私はどうするかという質問を」
約二メートル手前で止まったその人の声音は、松永久秀その人と同じ。
「身を焦がし、それから逃れるためにどんな手段でも、何を使っても、卿を」
伸びてくる腕より速く、はその胸に縋りつく。
「取り戻させてもらう」
の耳には松永の声しか聞こえず、視界は渦巻く闇を映した。
「…っっはっ」
は目を覚ました。
ちゅん、ちゅん
雀の鳴き声が聞こえる。
差し込む朝日は、障子を通して柔らかい光へと変わり部屋を照らす。
「嗚呼」
変わらない、の部屋がそこにあった。
壁に掛けられた山水画、違い棚にはこの間活けた花、畳のいい匂い、そしてきっと襖を開ければ、
「三好劇場…開幕!」
三好三人衆が本日の演目を披露してくれる。
あの夢は、最後だ。
あの世界との繋がりの。
「ほう、今日は随分と珍しい。卿が演目を最初から見るとは」
縁側を歩いてきた松永を視界に捉えると、は心が震えるのを押さえきることができず、目に涙を滲ませた。
「…ほんとうに、今日は、素晴らしい」
その言葉に、松永は若干驚いた風に言った。
「三好の演技が、かね?」
「いや違いますけど」
即答したに、演技中の三好兄が軽くこけたことはここにしっかり記しておく。
「…久秀様、これからもよろしくお願いいたします」
は深々と頭を下げる。
これからの永い時を思って。
「卿の欲するままに」
生きると良い
松永の静かな願いは、きっと叶う。
あとがき